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勘違いしてたこと

2022/12/13



 

勘違いしてたこと

某巨大掲示板の某雑談スレに出入りしてて、まあ書き込んだりするんだけど、誰かからレスポンスが付くことなんてまずないんだよね。まるで誰からも僕の書き込みが見えてないみたいな振る舞い。他の人はどうかというとレス付いて会話している。まあ理由はいろいろあるんだけど、早い話が僕はゴミってこと。存在価値もないし、誰にも興味を持たれない、好かれることも無い。メンヘラの集まりにおいても僕はゴミ。いやメンヘラをバカにしたり見下してるんじゃなくて、同じような病気を持ったり生きにくさを感じている集団に置いても僕はゴミほども存在価値がないということ。

僕はてっきり、それなりに人に関心持たれることもあるくらいの人間だと思ってたわけ。それが勘違いしてたこと。僕には1mmのゴミの欠片ほどの価値もない。

気付いたきっかけは『花咲ける孤独』



気付いたきっかけは最近読んでた山田花子さんの漫画『花咲ける孤独』を読んだこと。まあ読んでて登場人物は見た目が酷かったり、要領がとびきり悪かったりするんだけど、その人達がひどい扱いを受ける訳ですよ。なんか自分と重なるなって。読んでるうちに、ああこの人達は僕なんだって合点がいったんですよね。

オボコ娘の花丸レポート 自由に生きる方法

そして、これ。オボコ娘の花丸レポート。山田花子さんのエッセイというか叫びというか悟りというかメッセージというか。山田花子さんが生きてきた中で一つ一つ世界を理解し繋ぎ合わせた答え。これも同じ『花咲ける孤独』に収録されている。これ読んでてハッと目が覚めたというか。この世での自分の立ち位置を受け入れて楽に生きていけばいいんだと。

人のことなんてどうでもよくて。人に受け入れられなくてもどうでもよくて。孤独でよくて。お金が無くてもどうでもよくて。精神障碍者でもどうでもよくて。家族や親せき、近所からどう思われてようとどうでもよくて。もちろん某スレッドでもただただ楽に生きていけばいいんだって。

少し引用すると

この不平等、不条理、そして忘れちゃならない絶対の孤独。こんなものなのだ。もともと、この世はヒドイ所なのだ。それが「ふつう」なのだ。カタワ者達よ、泣け! わめけ! 宿命を呪え! てめえの人生こんなものだ。イヤなら自殺しちまえ。死ぬのが怖ければ仕方なくガマンして、生きて行くしか無いだろう。誰かにすがろうとしたって、味方なんて居やしない。救いを求めようたってそうはいかない。大体、悟りさえ開けば、幸福にになれそうな錯覚 しがちだが、わたくしはむしろ、悟りの心境とは空しい、やるせな~い気持ちだと思う。生きている限り、苦しみと悲しみは続くのだ。仕方ないのだ。だけど。この真実が公になってしまうと、世の中から光が失せてしまうから、人々は真実を訴える者達をいつの世でも迫害し、魔女狩るのだ。バカはバカなりに、ブスはブスなりに、さだめに合った生き方をするのが「自由」なのである。「若者のくせに老成している」となじるならすきにしてくれ。

と最後の方を引用しましたが、こんな感じのことが書いてあります。うん、正しいなって。こんなもんなんだなって、世界も自分も。ダメな奴は何をやってもダメで苦しみは続く。逃れることはできない。じゃあどうするか。死ぬか我慢するか。うん、我慢する。たまには嬉しいことがあるかもしれないし。たぶんないけど。

どうやって生きていけばいいか

ただ楽に生きることはできるなって。バカはバカなりにブスはブスなりに自分に合った生き方。なにも望まない。欲しいけど諦める。もう仕方がない、それが天命。カラスがどれだけ頑張っても孔雀にはなれないように、僕がどれだけ頑張っても誰かに興味を持たれたり必要とされることはない。孤独を受け入れる。色んな人からバカ扱い、キチガイ扱いされるのを受け入れる。自分はバカだしキチガイだと諦める。それでいいんだって。無理にポジティブにならなくてもいいし、誰かが決めた幸福を追わなくてもいい。無理に病気を良くしようとしなくてもいい。

少しだけ楽になれた。

もし、何か救いがあるとすれば、それはこの世界を一つ一つ自分の頭で考えて理解して繋ぎ合わせて答えを出すこと。そうすれば救いがあるかもしれないし、やっぱり全部クソかもしれない。それはそれでどっちでもいいけど、自分の頭で理解することは大事だなって思う。自分の答えを見つけるのは大切だなって思う。これはねこぢるさんの追悼番組見てても思ったこと。ねこぢるさんも自分の頭でこの世の一つ一つを理解していた。

さっきの「オボコ娘の花丸レポート 自由に生きる方法」は山田花子さんの答え。ねこぢるさんにはねこぢるさんの答え。

まあ、僕にはきっと時間が足りないだろうけど。